突き落とした後に帰ってきた子:

「きっと眠たいだけなのよネ」

神威がうっすらと目を開けると、横には正座を崩して座っている神楽の足があった。斜め下から妹を見てみれば、耳の後ろから鎖骨に繋がる筋の影がはっきりしていて、離れていた月日の長さを思った。別れた頃の神楽はどこもかしこもふやふやで柔らかくて、まるで優しい軟体動物のようだった。

「寝てなんかないよ」
「嘘。うとうとしてたヨ」
「寝てないさ」

漸く此方を向いた神楽の声は秋風と共にやってきた。窓の外の夕焼けはもう藍色だ。どおりで床が冷たいわけだ、と、神威はゆったりとした動作で起き上がった。ポリ、と首の後ろをかいて窓から見下ろす街並みはとても小さくて、この距離では落ち葉だって届かない。僅かに瞼を伏せている妹と澄んで見える街を交互に見比べて、神威は神楽が秋の訪れを喜んでいれば良いと思った。

「神威」
「んー?」
「お腹すいたカ」
「言われてみればー、すいてきたな」
「そうか」

神楽は立ち上がるとぺたぺたと歩いて行ってしまった。よくみがかれた板の間の床に彼女は足跡も残さなかった。
神威、と妹から呼ばれるようになったのは二人が再開してからのことで、神威が神楽の元を去る前までは、お兄ちゃん、と、可愛らしい声で呼ばれたものだった。その呼び方はこちらを完全に頼りきったもので、別段悪い気はしなかったことを覚えている。あの星の家には父はおらず母は病気で、神楽が頼れる相手は事実神威だけだった。
夜景になり始めた江戸の街を見下ろしながら、神威は眠ろうかと考える。指先で自分のみつあみをいじるだけの夕暮れで、やることもなしに時を過ごしてみると僅かな風の唸りしか聞こえなくてつまらない気持ちになった。
妹のあんなに颯爽とした後ろ姿を見てしまったあとは、今は自分が彼女から名前で呼ばれていることすら気になってしまう。寝てしまえば、小さかった頃の、神威に依存しきった神楽の夢を見られるかもしれない。

「神威」

そうこうするうちに抑揚の無い声でまた名前を呼ばれたので振り返ってみれば、そこにはミトン代わりにタオルで皿の縁を持つ神楽がいた。皿からは湯気が出ている。

「神楽?」
「腹減ったんだロ、食えヨ」
「あ〜…」

ゴトリと床に置かれたのは皿に乗せられた冷凍食品のグラタンだった。あぐらをかいて内心呆気に取られている神威を知るよしもなく、神楽はまたさっきと同じ所に座った。
「神楽はさ、料理しないの?」
「卵かけご飯なら得意アル」

あっそ、と呟きながらスプーンを入れるとカチャリと音がして、湯気が溢れた。

「随分と逞しく育ってくれちゃったなぁ」
「どういう意味アルか。強くなれっていったのはそっちアル」

そう、そうだ。そういったのは確かに自分なのだが今言った逞しさとはそういう意味ではなく・・・・・・・・・・・上手く表現できないので神威は目の前のグラタンを食すことに専念することにした。だってさっき自分がつぶやいた一言だって、ただの負け惜しみみたいなものなのだ。








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なんてこと無い話・・・