白濁した独白:

明るい未来は、幸福な自由は有るや、否や。

あたしはきっと、同じ歳くらいの人間より沢山のことを知っている。それはどれだけ計算が早くできるかとか、どれだけ難しいことを知っているかとかそういった学校で習えることではなくて、言葉を使って自分以外とつながりを持とうとする、このせかいで一番えらいとされている人間のこと。そのせいで、なにか、すごく汚いものを見せられた気がする。それはあたしに直接向けられたものであったり、勝手に知らない人のものが流れ込んだりした。そうして、欲しくないものと痣ばかりが増えていった。

あたしは、この間捨てられた。
ぽい、と、空き缶みたいにもっと早くに捨てられていたら、そんなに人間のことを知らずにすんだのに。あの人たちがあたしが普通ではないと気付いてから、どれだけ経ったのか。あたしの普通が、あたし以外にとっては恐ろしいことなのだと知ってからどれだけ経っただろうか。そう思い知らされてから長かったのだと思う。よくわからない。あの人たちが、こうあたしを処理してしまうまでに、とても苦しんでいたのは確かだった。そして今も、捨ててしまってなんの関係もなくなったあたしの記憶のせいで苦しんでいるに違いない。

あたしを拾った人間は、あたしの力を知ったとき、とても驚いた。そして、あたしに、希望を見い出していた。

与えられた部屋にずっと閉じ籠る。あたしは、同じ歳くらいの人間より、きっと遥かに自由だ。どことも繋がっていないから、どうにだってなれる。
―――――――そうだ、そうだよ、持て余した憎しみを片手に、外に出よう
気味の悪い声、鬼がささやいた。
鬼。

あたしは、あたしは自由なはずなのに、ずっと言魂に縛られている。きっと、これからずっとそのまま、どうにもならないんだろう。
あの人たちはあたしのことを鬼と、呼んだ。呼んだのではない、鬼、と言えばあたしを指したというだけで、それ以上でも以下でもなかった。あの二人はあたしの親であった筈なのだが、うわ言のように、生んでない、生んでないと繰り返し、鬼、と叫んだ。仮にも人間から生まれてきたあたしは、もう人間ではないのだそうだ―――――――――

あたしがこの家に来てから、少しこの家は普段より忙しいのだということが空気でわかった。この家の主と、その夫は、随分離れて暮らしているらしい。その夫が、あたしのために、慌ててこの家までやって来ていた。そして、どうやって所在を調べたのか知らないが、あの人たちに会ったのだそうだ。そして、あたしを正式に引き取ったようだった。

鬼という言葉は、あたしを拾った人間たちにしてみたら、少し、悲しい雰囲気を持っていた。
わざわざ鬼なんかを拾った人間たちは、あたしの中に何を見たのだろうか。流れ込んできた意識は、深すぎてよくわからなかった。 悲しいという気持ちに触れたのはとても久しぶりだった。
でも、何も感じなかった。

あたしは新しい家で、対等に人間として扱われようとしている。だけど、あたしはあの人たちの言魂に縛られてしまったから、もう人間には戻れない。もうどこにも繋がってないのに、もうあの人たちには二度と会わないのに。

あさくら
その名前にすがって良いのか悪いのか、見当もつかない。






ぼやけた影:

安井旅館は木乃の弟子によっていつも綺麗に掃除されていたけど、普段目につかないところ、例えば電話台の裏とか暖簾をかけるための棒の上とかには埃がうっすらたまっていた。台所の蛇口のインクは剥がれてしまいどちらが水でどちらがお湯なのか一目でわからなかったし、蛍光灯は微かにうなりながら安っぽい光を放っていた。そこは、そういう場所だった。

アンナから、下着に血が付いていると聞かされた木乃は、一瞬黙って、そうかいお前ももうそんな歳かい、と遠い声で言った。そんな木乃を見て、アンナはああこれは病気ではないのかと少しばかり安堵した。汚れた下着が気持ち悪くて不自然な立ち方をしていたため、下腹部の鈍い痛みをより強く感じた。

それは葉がランドセルを捨てた春のことだった。木乃に促された弟子に従って汚れた下着の後始末をしていると何故かおめでとうございますと言われ、訳もわからず再び木乃の前に立ち二人向き合って正座した。アンナは、さっきからただ流れているだけのニュースで桜の開花予想をしているのを聞いて、丁度良いBGMだと思った。木乃が口を開くまでのほんのコンマ二秒、久々に感じる麻倉の影のせいで、気が遠くなる程長く感じた。

自室で、夕日が落とす障子の陰を受けながら、アンナは壁に背を預けスカートの裾を持て遊んだ。






雨上がりのホーム:

風呂敷包みと身一つだけで電車に乗り込んだ、青森の初夏。空は何処までも澄んで、昨夜降っていた雨の雫が無人駅のホームの屋根からポツポツ落ちては気持ち跳ねた。

木乃があたしに与えてくれたのはあたしの居場所で、あたしはその居場所を片付けて来たのだった。
窓もカーテンも襖も閉めきっていた部屋を開いたのは3年前、そしていつも寝るのに使っていた布団を綺麗にして掃除をし終えてしまった部屋の、どこかよそよそしい押し入れにきちんとそれをしまったのが昨日。それまでずっと使っていたのにそうしてしまえばもう客用の布団と同じ風を装って、明日からはもうあたしはこの部屋の住人ではなくなるのだという現実感がどっと背中から押し寄せてきた。一度は鬼になった、なにも寄せ付けなかった幼いあたしに与えられたこの部屋は、なんの行動も起こせず死ぬことすら出来なかった幼いのあたしにとっての唯一の拠り所だった。
それは、この部屋を開いてからずっと決めていたことだった。木乃は、いつになっても此処はあたしの居場所だと言ってくれた。あたしは微笑んでそういうわけにはいかないのだと思った。
澱む他人の意識の中で溺れていた時に聞こえた木乃の重く深い意識―――――そのころはそれが何かかはわからなかったけれど、その意識をあのネコマタも持っていた。その意識は、あたしの部屋を開けた男に向けられていた。その意識について詳しく聞かされたことはないが、なにかあるのだろうということだけは、拾われた頃から気付いていた。それがうっすらと形を持ったのがあの大晦日だった。

あたしは、居場所を与えられた恩に、部屋を開けてもらった恩に、救われた恩に報いなければならない。知らされていないことを詮索する気はない。
ただ、あの意識と彼の夢が重なった今、あたしはあたしが出来ることをしなければならない。

部屋を再び閉めて、あたしは葉の元へ向かった。






七月の独白:

自分の存在意義なんてわからないけれど、こういうのは好きだわ。手を取られて目が合って、微笑まれてそのまま抱き締められた。今。産みの親には捨てられたくせにあたしの個人情報は脈々と知られていて、これが「今の」あたしになってから初めての誕生日ではない。だけど、いつだって生まれてきて良かったと思えるのだから不思議だ。されるがままに抱きすくめられて撫でられていたら、恐山の木乃のこととか、出雲の茎子のこととかを思い出して、急に、会いたくなってしまった。すん、と鼻を鳴らして旦那の首元に顔を埋めると、くつくつと笑いながら溜め息をついた。全く、あたしが何を考えているかも知らないで。今あんたのことなんか考えちゃいないのよ、知らないでしょ?
頭の後ろに回された手のひらの大きさにくらりとした。






中途半端なのを集めてみたら、アンナの話ばっかだった